【第三の道】 芸能は心や体を元気にするために存在する 武田宗典(能楽師)× 由佐美加子

 

第8回を迎えた「第三の道」は、能の世界に息づく身体知に、頭だけでなく体も使って迫った。プレゼンターを務めていただいたのは、観世流シテ方の能楽師、武田宗典氏。発声や体の動きを実際に体験する一方で、能の創始者が残した言葉の解説にも耳を傾ける。「芸能は、人の心や体を元気にするために存在する」という武田氏の言葉を体感するセッションとなった。

 

身体知は「第三の道」の、重要なテーマ

会の冒頭、今回の対話&ワークショップのファシリテーターを務めた、CCCパートナーの由佐美加子が発言した。「バリバリの資本主義でもなく、山にこもる自給自足生活でもない、第三の道を見いだしていこうとしている。そのためには身体知も重要なテーマだと思っています。今回は日本の伝統芸能からどんなことを紐解いていけるのか、とても楽しみにしている」と狙いを語って、武田氏にマイクを渡した。

 

武田氏は能の歴史を振り返るところから、話を始めていった。お神楽などとして現代に伝わっている日本の伝統芸能と、散楽(さんがく)と呼ばれる大陸から渡って来た芸能。「室町時代初期、それらを観阿弥と世阿弥が組み合わせ、集大成したものが能の始まりです」。また能は当時「猿(申)楽」と呼ばれていた。「サルまねという言葉もあるが、ものまね芸も能の一つの原型です」と、武田氏は説明した。そして「申楽」の「申」の字は、「もうす」とも読む。「セリフのやりとりで楽しませる芸能という側面も、能にはあります」。それらに加え「能は舞と謡(うたい)を含み、歌舞劇の要素も色濃く残っている」と武田氏。「今日は皆さんに舞や謡を体験してもらい、私の舞と謡もご覧いただきたいと考えています」

 

更に武田氏は能のもう一つの重要な特徴として、仮面劇であることを挙げた。「今日は持参した能面を、皆さん実際に顔へ当てていただきます」。武田氏が持参したのは「小面」という、若い女性を表現する面だった。作られて約50年経つものだが、数百年前の面も伝わる能の世界では、新しいものだという。「命と同じように大切に扱えと、教えられています」(武田氏) 写真2

 

面をつける演技は、つけない演技とまったく別もの

「まずはこの面をつけて、日常的な普通の話し方をしてみましょう」という武田氏。面をつけて普通に話す武田氏はなんとも滑稽で、会場は笑いに包まれた。「これでおわかりのように、面をつけての演技は、つけない通常の演技とは、まったく別ものだといえます」。能では日常と切り離された演技が求められることが、能楽師があまり映画やドラマには出演しないことと関係していると、武田氏は説明した。「一般的な演技の経験が能の演技力向上に役立つかどうかは、かなり疑問です」

 

この後、参加者は、一人ずつ面を実際に顔に当ててもらった。視界は非常に狭く、息も苦しい。「この面は口に穴があいているが、ない面もある。息苦しいうえに、セリフも聞こえにくくなります」という武田氏の説明に、面をつけて演じるシテ方の大変さを、参加者は実感していた。

 写真3

ここで由佐は、「いい面とは、どういうものか」と質問。武田氏は「人の顔は左右対称ではありませんから、面も対称を微妙にずらす。造形の微妙なバランスがポイントになる」と答えた。プロの画家でも「能面を描くのは難しい」と語っていたエピソードを披露。能面には非常に微妙なバランスが表現されていることを紹介した。

 

基本の姿勢「カマエ」を実地に体験

仮面をつけて演じるため、能の役者は顔の表情ではなく、体の動きを使って喜怒哀楽を表現する。喜怒哀楽の演技を実際に体験するのに先立ち、その前提となる基本姿勢のレクチャーを受けた。ただ立っている基本の姿勢を、能では「カマエ」という。ここでは武田氏から女性役のカマエを指導してもらって、参加者たちは体験した。

 

「足をぴったりつけて」「いったん前屈して」「頭を天井から糸で引かれているように立って」「腕がたまご型を描くように……」指導を受けてカマエで立って見るが、普通に立っている姿勢に比べて体に力が入り、なかなか苦しい。「能ではただ立っているのが、一番しんどいといわれています」と武田氏。最長で2時間近く、カマエを崩さないで立ち続けることがあると説明すると、参加者からは「すごい……」という声が漏れていた。

 

「心のわだかまりが、空に飛んでいく」喜びの動作

基本姿勢に続いて、喜怒哀楽の動作を学んだ。最初は「喜び」。両手を広げて頭上で合わせたら前に下し、下ろしたらひじを使って、両手を斜め上にはねあげる。「心のなかのわだかまりが、空に飛んでいくイメージで」と、武田氏は動きを指導した。この動きは鳥や天狗が羽ばたいている様子を表現する場面にも使われるという。

 

次は「悲しみ」。「能の演目は悲しいお話が多いので、とても重要な演技です」(武田氏)。能面は素手で触ることが禁じられているため、面には手を当てず、当てるしぐさだけをする。「体を少し前傾させ、ポタポタと落ちる涙を、手のひらで押さえるように」と、武田氏。だが涙を押さえる手は目元ではなく、おでこに持っていくようにと指導された。舞台の上で目元を押さえると、観客席の角度からは、鼻を押さえているようにしか見えないのだという。

 

怒りや笑いの表現も学んだ後、「もう一つ、能によく登場する演技を取り上げましょう」と、武田氏は「合掌」という祈りのポーズを紹介した。「能は宗教劇の要素が強く、ほとんどの作品で神仏が関係してくる。それゆえに祈りの動きは重要になってきます」。指先だけを胸の前で合わせ、その指先を見つめるのが、合掌。武田氏の解説を聞いた参加者たちは、心を込めて手を合わせていた。

 

シテを務めるには、どんな役でも演じる必要がある

動きの次は、能における「声」に関する学びを深めていった。武田氏は役者や伴奏などの役割が分業制になっている能のなかで、シテ方という役割を担っている。「シテ方とは面をつけて舞台に立つ、主役のことを指します」と、武田氏。シテは漢字では為(なす)手、または仕(つかまつる)手と書き、シテ方は主役の役者だけにとどまらず、作品全体を担当する役割でもあると説明した。「シテを務める以上、老若男女どんな役でも演じる必要があるのです」

 

そこで武田氏は、同じセリフを若い男性、若い女性、年をとった男性の3パターンで演じ分けて見せた。特徴的なのは、女性の声でも歌舞伎のような裏声は使わない点だ。「能の演技には、普通の動きや声のデフォルメはうまく合いません。男性らしさを残した上で、女性らしさを加えていくのです」(武田氏)

 

また能の中での歌唱、謡(うたい)についても実演と解説を加えて行った。武田氏は能の謡い方には「つよぎん」「よわぎん」という2つの歌い方があると話し、両方の謡の一節を実演。「前者は、音階は少なめで息を強くして謡うのに対し、後者はメロディを大切にして盛り上げていく」と説明した。「シテ方は面をつけて謡う必要がある上に、舞台後方からはコーラス隊ともいえる囃子方が大きな声で謡っている。大きな声をしっかり出す必要があります」と語った。

 

『風姿花伝』は、先の時代を見越した戦略指南書

ここから能を巡る対話&ワークショップは、世阿弥の言葉を著書『風姿花伝』から紹介するパートに進んでいった。

 

世阿弥は風姿花伝などいくつかの著作を残しているが、「それは当時の芸能者としては珍しいことでした」と武田氏。その頃には能のライバルとなる芸能が多数存在したのだが、「それらの芸能との競争に打ち勝つための、戦略指南書といったものだったのではないか。先の時代を見越し、能を後世に残すために書き残された、日本最初の芸能指南書なのです」

 

「初心忘るべからず」で伝えたかった、世阿弥の真意

最初に武田氏が紹介したのは「初心忘るべからず」。「一般には、始めて出会った感動や、初々しい気持ちを忘れてはいけないといった意味で用いられていますが、世阿弥はそういう意味ではこの言葉を使っていません」

 

世阿弥はいくつかの段階の「初心」を解説しており、例えば「老後の初心を忘れてはいけない」と説いている。人は老いると、体が動かなくなったり声が悪くなったり、若い頃と同じような演技ができなくなってくる。「そういう事態にでくわしたときの、自分なりの対処法を、自分の引き出しに取っておきなさいというのが、世阿弥の言葉の最も重要なポイントなのです」

写真4

 

常に変化しなければ、花もあきられてしまう

続いて紹介されたのは、「住する処なきを まず花としるべし」という言葉だった。武田氏は「花という言葉は世阿弥の著作のキーワードです」といい、花とは舞台に立ったときの華やかさなどの、魅力を指していると説いた。

 

「だが一つ処に安住していると、花はあきられてしまう。能では常に変化することが大事だと、世阿弥はいっているのです」。伝統芸能は変化しないものだという先入感があるが、能はその始まりから、変化することの大切さが指摘されていたというのだ。実際、能の演目には新しい演出が加えられて、当初の作品から比べて、上演時間が倍の長さになっているものもあるという。

 

「53歳で亡くなってしまいましたが、大名人と呼ばれた観世寿夫という能楽師がいました。私の叔父は一緒に舞台に立ったことがあるのですが、観世寿夫のすごいところは常に芸が変化していることだと話していました」。武田氏も、観客や仲間の能楽師から「常に変化している」と感じてもらうことを大切にしていると話した。

 

「何のために能をするのか?」見いだした答え

武田氏は次に、「そもそも芸能とは 諸人の心を和らげて 上下の感を為さん事 寿福増長の基 假齢延年の法なるべし」という言葉を取り上げた(「上下の感を為さん事」は、身分の違いを気にしない事という意味)。この言葉は、武田氏の能楽師としてのテーマになっているのだと語った。

 

武田氏は学生の頃、飲み屋で隣に座った人に、「いったい何のために能をやっているのか?」と問われたことがあった。それ以来、自分なりに能を演じる意味を見つけようとしていたが、ある時ふと、この言葉に出会ったという。「芸能は、人の心や体を元気にするために存在している。お客さんに能を観て疲れが取れた、寿命が延びたと言ってもらうために、舞台に立っているのだと思っています」

 

この言葉に関連して、武田氏は米国・シアトルでの能のワークショップでの経験を話した。ワークショップにはある老夫婦が参加していたが、終了後、「元気が出て、寿命が延びた気がする。だから来年もきっと参加できるよ」と声をかけてくれたという。「芸能で人の心や体を元気にするという感覚は、外国の方にも通用するのだと実感しました」

写真5

 

「四海波」を謡い、「屋島」の舞を鑑賞

いよいよ会も終盤。先に学んだ謡の知識を生かしながら、「高砂」という演目の、四海波の一節を参加者みなで謡った。「四海波静かにて……」と始まるこの一節は、結婚式や年始などのめでたい折に、能楽師が必ず謡うものだと武田氏は説明を加えた。会のしめくくりには、武田氏が「屋島」という作品の舞の一部を披露。張りつめた空気の中で武田氏が謡い、舞う姿に、参加者は一様に惹き込まれていた。

 

表情が見えないからこそ、コミュニケーションは活発に

ここから会は、感想アンド質問タイムへと移っていった。ある参加者は「能では面をつけているので、役者の表情が見えない。だがそれが逆に、体の動きなどから役者の気持ちを読み取ろうとすることにつながる。表情が見えないからこそ、役者と観客のコミュニケーションが活発になるように感じる」と感想を述べ、武田氏は「確かに能は、表情を出せないという制約があるから、観るのに集中力が求められます」と応じていた。

 

「能の演技で心がけていることはありますか?」という質問に対して、武田氏は能では面をつけない演技もあるといい、「面を外してしても、表情を出さないで演技することを心がけています」と答えていた。

 

また「そもそも能では、なぜ面をつけるのでしょうか?」という質問も寄せられた。武田氏は「能は宗教劇の側面が強い」と話し、面をつけることで何かに化ける、変身するという意味が込められていると説明した。「皆さんにも先ほど経験してもらったように、面をつけると見えにくい、聞こえにくい状態で、役者は集中力が高まる。面をつけて演技しているときは、トランス状態に近いのではないか」と語った。

 

最後に由佐が会全体を振り返った。「武田さんの立居振舞は、どの場面を切り取っても美しかった。武田さんの言葉どおり、能に触れて元気になれました」と感想を述べ、頭と体で能の身体知を探るセッションは幕を閉じた。

 

武田 宗典(たけだ むねのり)

1978年生まれ。観世流シテ方の父武田宗和、二十六世観世宗家・観世清和に師事。2歳11カ月で初舞台を踏み、芸歴を重ねてきた。現在は年間約100公演の舞台に上がり、うち5番(演目)ほどでシテ(主役)を勤める。能の解説と実演を見せる能楽講座『謡サロン』、「初心者の方でもわかりやすく楽しめる」をモットーとする公演『七拾七年会』など、能の普及にも取り組んでいる。